こうした重大な国際犯罪に対し、武力ではなく「法」によって個人の責任を問う仕組みが、国際刑事司法です。力ではなく法によって責任を問うという原則を、どう守り続けるか。
慶應義塾大学は、「独立自尊」の建学の精神のもと、この問いに向き合う知の拠点をアジア太平洋地域に築きます。
アジア太平洋地域は、法体系、政治体制、歴史的背景、価値観が極めて多様な地域です。このような地域であるからこそ、国境や分野を超えた継続的な対話を通じて、国際刑事司法の意義、限界、正統性、実効性を精緻に検討し、共有することが不可欠です。
本研究所の目的は、アジア太平洋地域における国際刑事司法の正統性と実効性を支える研究・教育・対話の拠点として、国際的な学術交流を促進するとともに、国際刑事司法をめぐる重要課題に対し、国内外に広く学問的発信を行うことです。
この実現のため、本研究所はアジア太平洋学術ネットワークの事務局機能を担い、日本、韓国、モンゴルの3か国からの10のICCパートナー大学(MU協定校)による年1回のフォーラムの開催を支えるとともに、AI技術を用いながら、学生や若手研究者の育成と専門家および実務家の交流を促進・活発化させます。

このたび、慶應義塾大学国際刑事司法研究所の開設にあたり、本研究所の設立の経緯、意義と目的について、ごあいさつ申し上げます。
国際刑事司法は、ジェノサイド罪、戦争犯罪、人道に対する犯罪といった、国際社会全体の関心事である最も重大な犯罪に対し、武力や力の支配ではなく、法に基づいて個人の刑事責任を追及するという理念のもとに発展してまいりました。
本研究所が発足した2026年は、奇しくも東京裁判開廷80周年にあたります。当時、幾多の課題を抱えながらも産声を上げた国際刑事法廷の被告人席に座っていた日本は、今や国際刑事裁判所(ICC)の最大の支援国となり、その所長をも輩出するに至りました。
もっとも、国際刑事司法という営みは、様々な課題に常に直面してまいりました。ICCが現在直面している困難な状況に鑑みても、各方面からの協力がなければ、その力を十分に発揮できない恐れがあります。また、普遍的な法規範の実現を目指す裁判所でありながら、アジア太平洋地域においては、そのプレゼンスが必ずしも高くないという課題もございます。
このような現状を踏まえ、ICCを特定の政治的立場からではなく、学術的な見地から支えるべく、本研究所およびアジア太平洋学術ネットワークが発足いたしました。
2024年には、ICCの赤根智子所長が本学で講演を行い、インターン生の派遣や学術交流・研究協力に関する協定を締結いたしました。その背景には、ICCと慶應義塾との間の、長年にわたる裁判官・研究者間の活発な研究教育上の交流がありました。日本では国際刑事法という分野を扱う大学は現在でも非常に少ないなか、本学ではこれに特化した講座が20年以上前にいち早く導入され、現在では日本語でも英語でも幅広い教育と研究が行われております。また2025年には、第1回ICCアジア太平洋学術フォーラムを本学で開催し、日本・韓国・モンゴルの3か国から10のICCパートナー大学が参加して、現在の学術ネットワークが結成されました。さらに2026年3月には、UNAFEIとの共催でシュミット前ICC裁判官の講演会を実施するなど、すでに多くの方々に支えられてまいりました。
こうした経緯と実績を基盤として、本研究所は、アジア太平洋地域の学術対話の拠点としてICC学術ネットワークの統括事務局を担うとともに、国際刑事司法のシンクタンクとして、また世界とアジア太平洋をつなぐ知の回廊として、三つの役割を遂行いたします。
慶應義塾の建学の精神である独立自尊のもと、本研究所は特定の立場や機関に依存せず、自らの判断によって立ち、学問的中立性と客観性を重視いたします。ここでいう中立性とは、沈黙ではありません。国際刑事司法の成果だけでなく、その課題や限界、正当性と実効性を、特定の立場に与することなく精緻に検討し続けること、それこそが、学問のなしうる貢献です。
とりわけアジア太平洋は、法体系も政治体系も歴史的背景も極めて多様な地域であるからこそ、国境を越えた継続的な学術的対話が欠かせません。そうした活動を通じて、今後とも国際刑事司法の健全な発展に寄与することを目指してまいります。

国際公法・国際人権法を専門とし、慶應義塾大学通信教育課程、順天堂大学国際教養学部、日本大学文理学部にて非常勤講師を務める。これまで、在オランダ日本国大使館において国際司法裁判所および国際刑事裁判所に関する業務を担当したほか、Human Rights Watch、GR Japan、外務省情報統括官組織等において、国際法、人権、外交、公共政策に関する実務に従事した。慶應義塾大学大学院法学研究科にて法学修士(LL.M.)を取得後、同研究科後期博士課程国際法専攻単位取得退学。フルブライト奨学生として、タフツ大学フレッチャー法律外交大学院にて法律外交修士(MALD)を取得。